S__114393090
里山音聴草子 -Satoyama-otogi-zoushi

■第2回 : 月と中国と裏側の世界、そしてピンク・フロイド

文 : 岩本晃市郎

 このコラムの第1回でお伝えした通り、僕は現在東京を離れて地方都市の外れにある里山に住んでいる。ここに移り住んだ当初はそのあまりの不便さに驚いたが、今となってはそれと引き換えても余りある里山の自然の恵みにはただただ感謝しかない。コンビニ、吉野家、マクドナルド、スーパーマーケット、本屋、その他諸々の生活インフラは遠のいてしまったが、なければないで全く不便ではない。流通が発達して通販が当たり前となり、インターネット社会となった今では、かつてほど物理的な距離を感じなくなっているからだ。つい最近も1週間ほど東京に滞在したが、コロナの流行のせいもあってか、お店は早く閉まるし、人通りも少ないし、里山生活とさほど変わらないと感じた。この地にいてリモート会議に参加していることを考えれば、東京に住む強固な理由は今のところ見当たらない。僕が手にしている自然の景色と産物を手放してももう一度東京に戻るか、と尋ねられたら、よっぽどの必然性がないかぎりは間違いなく首を横に振るだろう。そんな里山の一番の魅力は何かと言えば立っている目線の先に──普段道を歩いているような姿勢の延長線上に──山が見える。そしてその山の方に少し歩いて振り返ると水平線が見える。その山と海から採れる野菜と魚介はこの上もなく新鮮でおいしい。今では東京の食卓では滅多に上がらなかった魚介と野菜が食生活の中心で、牛豚鳥を食す機会はグンと減った。

 先日もそんな里山の夜道を散歩していると(実は公共の大型ダストボックスにゴミを捨てに出たのだが)大きな月が目に飛び込んできた。連なる山の間にぽっかりと浮かぶまんまるの月は恐ろしいほど明るく、まるで夜の太陽のようだった。かといって決して眩しくはなく、その冷めた光は神々しくもあった。家に戻ってからネットでその日の月の満ち欠けを調べると、満月になるまでには2日ほど早いことがわかった。そのついでに月関係のニュースが目に飛び込んできた。そこには中国が月の裏側に無人探査機「嫦娥(じょうが)4号」を世界で初めて着陸を成功させたとあった。月は自転と公転が同期しているため、地球には常に同じ半球を向けている。したがって我々は──地球に住んでいる人類は──月の裏側なるものを見たことがないのだ。このことは昔から数多くの憶測を生み、そこには宇宙人の基地があるとか、都市文明があるとか言われてきた。見えないことをいいことに、商売熱心な大人や、マッド・サイエンティストたちは純真な子供の頃の我々を翻弄したのだった(なんか、いろんなものを買わされたなぁ)。月の裏側、つまり、“ダーク・サイド・オブ・ザ・ムーン”は、見えないからこそ神秘的で、多くの空想を掻き立てるのだ。


 1973年3月1日、ピンク・フロイドはこの月の裏側をテーマにしたアルバムを発表した。原題は『The Dark Side Of The Moon』、邦題は『狂気』と名付けられた。ピンク・フロイドが提示した “月の裏側” のプロトタイプは72 年1月にはライヴで披露されていて、アルバムとしてまとまるまでに1年強を要している。72年3月の来日時にも『The Dark Side Of The Moon』が演奏され、1年後に発表されるアルバムを当時の日本人オーディエンスも聴いていた。ただこのアルバムがロック史に残る大ベストセラーとなることや、その後50年にわたって聴き継がれる名作になることなどは、当時、誰も想像だにしていなかった。

 このアルバムの英タイトルの意味が“月の裏側”なのに、なぜ邦題は『狂気』なのかというと、月を表す言葉には、Moonの他にルナ(Luna)がある。この言葉はラテン語に由来し、ローマ神話では月の女神のことを意味する。また、ルナティック(Lunatic)は名詞としては“狂人” を表し、形容詞では“狂気じみた”とか“精神異常の”という意味で使われる。月は霊気を発していて、それを浴びると発狂するといわれていた時代もあったほどだ。その神秘的な光に前近代の人々は畏怖の念さえ抱いていたのだろう。実際に月の引力は潮の満ち引きを生み、地球上の全ての生物に当てはまる自然の摂理を生んでいる。  
 〈月の裏側=未知の領域=通常ではない精神状態〉という方程式に則れば、「月の裏側」がなぜ「狂気」となったのかは理解できる。当時の日本のレコード会社の担当ディレクターのネーミングのセンスが光る作品となった。

 裏側といえば、もう一つ中国が出てくる言葉を思い出す。それがチャイナ・シンドロームだ。チャイナ・シンドロームとは、アメリカで起きた原発事故によりメルトダウンした核燃料が大地を貫通して、ついには地球の裏側の中国まで到達するという、一種のブラック・ジョーク的な言葉だ。1979年に公開されたアメリカ映画『チャイナ・シンドローム』(原題 : The China Syndrome)に由来する言葉で、原発事故を伝えようとする地方局の女性レポーター(ジェーン・フォンダ)、事故を防ごうとする原発技師(ジャック・レモン)、そして事故そのものを隠蔽しようとする原発会社の人間との対立と葛藤を描いた作品で、原発の事故は大惨事にならずに収束するが、結果的には全てが明らかにされないままに映画は終わる。そしてなんと、この映画が公開された12日後にアメリカのペンシルバニア州にあるスリーマイル島原子力発電所で原子力事故が現実のものとなったため、映画は話題となり大ヒットを記録。翌年に開催されたアカデミー賞では、この映画から主演男優賞、主演女優賞などの主要部門にノミネートされ、カンヌ国際映画祭では、ジャック・レモンが主演男優賞を、ジェーン・フォンダが主演女優賞を獲得した。



 裏側というものは、覗き見ることができないからこそ、何かがあるのではないか、という憶測を呼んできた。ピンク・フロイドは誰しもの心の中にある狂気を描くことによって、また、そうした心の奥底の見えない部分を月の裏側と重ね合わせることによってアルバムを作った。アメリカは原発事故によるメルトダウンが自国の裏側にある中国まで達するという喩えで、その恐ろしさを表現した。しかし中国は47年後、その恐ろしく未知な裏側に、神話に登場する月に住む女の仙人の名前──嫦娥を冠した無人探査機を送り込み、現在も我々が見ることのできない世界を日々調査し、覗いているのだ。

 里山から見る夜空には今夜も、ずっと昔から変わらないまん丸のお月様が光り輝いている。だがその裏側では探査機が何かを探し求めてカタコトと走っている。今のところ嫦娥4号が何か重大で未知なものを発見したという報告はない。もし彼女が何か資源としての価値あるものを発見したとすれば、その時人々は“ダーク・サイド・オブ・ザ・ムーン”に対して神秘的な期待は抱かなくなり、空想は資源をめぐる現実世界の中の資本主義の戦いへと導かれていくだろう。しかし、ピンク・フロイドはそれもまたすでに『狂気』収録曲「マネー」で歌っている。中国も恐るべしだが、時が経につれ、アルバムのコンセプトが現実味を帯びてきている『狂気』も凄い。しかし、満月が浮かぶ静かな里山の夜に響くピンク・フロイド・サウンドはそれに輪をかけて怖いぞ!!

column002

■The Dark Side Of The Moon / Harvest SHVL 804(1973.3)

Track : 1.a) Speak to Me .b)Breath / 2.On The Run / 3.Time / 4.The Great Gig In The Sky / 5.Money / 6.Us And Them / 7.Any Colour You Like / 8.Brain Damage / 9.Eclipse