midashi002■Time Machine 1977-1986 第8回 1977年8月

 1977年8月16日、キング・オブ・ロックンロールと呼ばれ、世界中で愛されたエルヴィス・プレスリーは、自宅のバスルームの床で倒れているところを当時交際していた女性ジンジャー・オールデンにより発見された。6月6日に、最後のシングルとなった「ウェイ・ダウン」が発売され、その後、いくつかライヴを行っていたが、ほとんどの声が出ない日もあれば、元気に歌える日もあるという状況で、その日は、新たなツアーを始めるためにメンフィスを発つ予定だったという。当時、プレスリーは、緑内障、高血圧、肝臓障害、大腸肥大などさまざまな病気を患っていて、それぞれの病気のために薬物乱用に陥っていたと言われている。蘇生が試みられたが、成功せず死亡が確認された。葬儀は8月18日にグレイスランドで行われ、エルヴィスが埋葬されるフォレストヒル墓地には約8万人ものファンが行列を作った。42歳という若さだったが、世界史上もっとも売れたソロ・アーティストとしてギネス認定されている。

 ロックンロールの王が人生の幕を閉じた77年8月にも英米で多くのアルバムがリリースされている。77年8月29日には、ゴッドファーザー・オブ・パンクとも呼ばれる元ストゥージズのイギー・ポップのセカンド・ソロ・アルバム『ラスト・フォー・ライフ(Lust For Life)』(RCA / AFL1-2488)が発売されている。

 1947年4月21日、米ミシガン州生まれのイギーは、67年、ギタリストのロンとドラマーのスコットのアシュトン兄弟らとともにザ・ストゥージズを結成。3枚のアルバムをリリースするが、イギーのヘロイン中毒によって74年に解散。その後75年には、ギタリストのジェームズ・ウィリアムソンとともにアルバム『キル・シティ』をイギー・ポップ&ジェームズ・ウィリアムソン名義で制作するが、発売されたのは77年11月だった。

 76年、イギーは、ストゥージズ時代に知り合ったデヴィッド・ボウイの“ステーション・トゥ・ステーション”ツアーに同行するが、同年3月21日のステージの後、ニューヨークでマリファナ所持の容疑で二人とも逮捕されてしまう。その後、ボウイとイギーは薬物中毒から脱却するために、西ドイツのベルリンへと向かった。ベルリンで彼ら二人はそれぞれアルバム制作を行い、77年3月、イギーはデヴィッド・ボウイ・プロデュースによるファースト・ソロ・アルバム『イディオット』を発表。『イディオット』は、全米30位に入り、ストゥージズ以上の成功を収め、イギーはそれに伴うツアーを行っている。ボウイは77年1月に同地で制作したアルバム『ロウ』をリリースしていたが、自身のツアーは行わず、イギーのツアーをサポートすることを選択した。このツアーが終わると二人はベルリンに戻り、同年5月末にハンザ・スタジオでレコーディングを開始。イギーは8月にソロ第2作となる本作『ラスト・フォー・ライフ』をリリースした。ボウイ色が色濃く出て実験色も強かった前作『イディオット』に比べ、タイトル曲をはじめ、シングル・カットされた「サクセス」「ザ・パッセンジャー」など、バンド・サウンドを前面に打ち出したロックンロール作品は、ソロ・アーティストとしてのイギー・ポップを代表する作品となった。

1. THE DOOBIE BROTHERS / Livin’ On The Fault Line 2. IGGY POP / Lust for Life 3. ERIC CARMEN / Boats Against the Current

 エリック・カルメンのセカンド・ソロ・アルバム『雄々しき翼(Boats Against The Current)』(Arista / AB4124)も77年8月にリリースされている。75年4月にラズベリーズを解散したエリック・カルメンは、同年11月ソロ第1作『サンライズ(Eric Carmen)』を発売。同作からシングル・カットされた「オール・バイ・マイセルフ」が、ビルボードで2位、キャッシュ・ボックスで1位を獲得、また「恋にノータッチ(Never Gonna Fall In Love Again)」も全米11位に入るヒットとなり、2曲ともその後長く愛されるナンバーとなった。アルバムもまた全米21位を記録し、商業的に大きな成功を収めた。

 本作は、ファーストから約2年ぶりにリリースされたソロ第2作で、アルバム・タイトルは、フィッツジェラルドの「グレート・ギャッツビー」の一節から取られている。ゲスト・ミュージシャンに、アンドリュー・ゴールドやジェフ・ポーカロ、ナイジェル・オルソン、バック・ヴォーカルにブライアン・ウィルソンやブルース・ジョンストンなどのビーチ・ボーイズのメンバーを迎えて制作された本作は、もともとはガス・ダッジョンがプロデュースを行う予定だったが、うまくいかずセルフ・プロデュースで仕上げられている。何度も録り直しが繰り返されたため制作費がかさみ、当時の平均的なアルバムの6倍もかかったと言われている。アルバムからシングル・カットされた「愛をくれたあの娘(She Did It)」は全米23位に入るヒットとなったものの、その後シングルとして発売されたアルバム・タイトル曲は全米88位、「マラソン・マン」はチャートインせず、アルバムもまた45位と前作以上の成功を収めることはできなかった。

 77年8月19日には、ドゥービー・ブラザーズの『運命の掟(Livin’ On The Fault Line)』(Warner Bros. / BSK 3045)がリリースされている。本作『運命の掟』は、彼らにとって通算7枚目のオリジナル・アルバムで、マイケル・マクドナルドが加入してから2作目となる。菅弦楽器のアレンジにTOTOのデヴィッド・ペイチを迎えて制作された本作は、マイケル・マクドナルド加入後に推進していたAOR路線がさらに押し進められ、都会的な雰囲気あふれる一枚となっている。マクドナルドとカーリー・サイモンの手による「ユー・ビロング・トゥ・ミー」は、カーリーのアルバム『男の子ように(Boys In The Trees)』にも収録され、シングル・カットされて全米6位となるヒットとなった。本作は全米10位を獲得したが、彼らのAOR路線は次作『ミニット・バイ・ミニット』(78年12月)で花開くことになる。なお、最後にオリジナル・メンバーのトム・ジョンストンが脱退している。

4.MOTORHEAD / Motorhead 5.DENNIS WILSON / Pacific Ocean Blue 6.SPLIT ENZ / Dizrythmia 7.DONOVAN / Donovan 8.JOHNNY WINTER / Nothin’ but the Blues

 元ホークウィンドのレミー・キルミスターが自身をフロントとして75年に結成したバンド、モーターヘッドのデビュー・アルバム『鋼鐡の稲妻(Motorhead)』(Chiswick / WIK 2)は77年8月21日に発売されている。本作のアルバム・カヴァーにデザインされた、ウォー・ピッグはその後彼らの作品にさまざまなかたちで登場することになる。全英43位。

 ビーチ・ボーイズの故デニス・ウィルソンのファースト・ソロ・アルバム『パシフィック・オーシャン・ブルー(Pacific Ocean Blue)』(Caribou / PZ 34354)は77年8月22日のリリース。当時、ビーチ・ボーイズのメンバーとしては初となるソロ・アルバムで、同時代のビーチ・ボーイズが低迷していた時期でもあり、セールス的にはそれほど振るわなかったものの、批評家には好意的に受け入れられた。デニスは84年12月28日、ロサンゼルスのマリーナ・デル・レイで泥酔状態のままヨットから海に飛び込み溺死している。享年39歳。

 77年8月29日には、ニュージーランド出身のニューウェイヴ・グループ、スプリット・エンズのサード・アルバム『ディズリズミア(Dizrythmia)』(Mushroom / L 36347)がリリースされている。前作『Second Thoughts』でオリジナル・メンバーのフィル・ジャッドとマイク・チュンが脱退したため、ティム・フィンの実弟であるニール・フィンとナイジェル・グリッグスが加入した新生スプリット・エンズとしての第1作。ジェフ・エメリックをプロデュースに迎えて制作された本作は、ジャケットやその後の彼らのイメージとは違って、ニューウェイヴ色はそれほどの濃くなく、ポップ・アルバムに仕上げられている。

 77年8月にはそのほか、英シンガー・ソングライター、ドノヴァンの通算14作目となるアルバム『旅立ち(Donovan)』(RAK / SRAK 528)、米ギタリスト/シンガー、ジョニー・ウィンターの通算8枚目のアルバム『ナッシン・バット・ザ・ブルース(Nothin’ But The Bllues)』(Blue Sky / PZ 34813)がリリースされている。